- Date: Tue 17 06 2014
- Category: 野球を語る > うつ中年思いつき野球日記
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トニーグウィン メジャーの安打製造機逝く
訃報です。
サンディエゴパドレスで活躍したトニーグウィンさんが54歳という若さで亡くなったというニュースが届きました。

「ミスターパドレス」と呼ばれた偉大なる安打製造機であります。
wikiより引用しますと…
カリフォルニア州ロサンゼルスにて生まれ育ち、サンディエゴ州立大学時代には野球よりもバスケットボールでスター選手としても名を馳せた。1981年のNBAドラフトでNBAのロサンゼルス・クリッパーズから10巡目指名を受けたが、同日に行われた1981年のMLBドラフト3巡目でドラフト指名されたMLBのサンディエゴ・パドレスと契約し、野球の道を選ぶ。
現役時代
1982年にメジャー昇格を果たし、54試合に出場して打率.289を記録する(打率3割を切ったのはキャリアを通じてこの年だけである)。1984年にはオールスター初出場を果たし、打率.351で初の首位打者のタイトルを獲得。213安打を放ち、球団史上初の200本安打も達成した。ハイアベレージとスピードを持った1番打者として鳴らし、1987年にはリーグ1位の打率.370、リーグ2位の56盗塁という成績を残した。
1993年以降は中軸を務めることが増えた。1994年にテッド・ウィリアムズに指摘され、長打重視も視野に入れた打撃改造を行う。同年は4割打者にあと一歩まで近づくが、8月に選手会による232日間に及ぶ長期ストライキに突入したためシーズンは打ち切られ、打率は.394で終わることとなった。1996年には打率.353をマークしたが、規定打席には4打席足りなかった。しかし、残り4打席を凡打と計算しても打率.349となり、エリス・バークス(ロッキーズ)の打率.344を上回ったため、メジャー史上初の規定打席不足での首位打者となった。
1997年は打率.372で4年連続で首位打者となった。これはナ・リーグ史上ロジャース・ホーンスビーの6年連続に次ぐものとなった。また、自己最高の17本塁打・117打点、球団新記録となる220安打・49二塁打を記録。グウィンは「私は今、打者として全盛期にある」と豪語し、「40歳になるまで、あと3年は現役を続ける」と宣言した。
1999年8月6日に史上22人目となる3000本安打を達成。2284試合目での達成はタイ・カッブ、ナップ・ラジョイに次ぐスピード記録であった。
2001年のシーズンを最後に、通算打率.338、通算3141安打の記録を残して現役引退。1983年から引退する2001年まで、レギュラーシーズンの打率が3割を切ることは1度もなかった。オールスター出場15回、首位打者8回などの記録も残した。2004年にグウィンの背番号「19」がサンディエゴ・パドレスで永久欠番となる。
引退後
野球殿堂入りの資格を得た2007年、532票(97.6%)もの高得票を集め、1年目での殿堂入りを果たした。
う~む…改めて見てみるとスゴイ選手でしたね。
メジャーのストライキがあった年は4割の可能性もあったってのは今でも強い印象があります。
テッドウイリアム以来の4割打者誕生か?
なんて日本でも話題になってましたね。
ちなみに当時のファミスタのメジャーチームでやたらハイアベレージのぐうぃん
という選手がいたのが私の最初の出会いだったと思います。
一時代を築いた名選手が亡くなるのは寂しい限りであります。
遠く離れた日本の片隅から謹んで哀悼の意を表します。
合掌…
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サンディエゴパドレスで活躍したトニーグウィンさんが54歳という若さで亡くなったというニュースが届きました。

「ミスターパドレス」と呼ばれた偉大なる安打製造機であります。
wikiより引用しますと…
カリフォルニア州ロサンゼルスにて生まれ育ち、サンディエゴ州立大学時代には野球よりもバスケットボールでスター選手としても名を馳せた。1981年のNBAドラフトでNBAのロサンゼルス・クリッパーズから10巡目指名を受けたが、同日に行われた1981年のMLBドラフト3巡目でドラフト指名されたMLBのサンディエゴ・パドレスと契約し、野球の道を選ぶ。
現役時代
1982年にメジャー昇格を果たし、54試合に出場して打率.289を記録する(打率3割を切ったのはキャリアを通じてこの年だけである)。1984年にはオールスター初出場を果たし、打率.351で初の首位打者のタイトルを獲得。213安打を放ち、球団史上初の200本安打も達成した。ハイアベレージとスピードを持った1番打者として鳴らし、1987年にはリーグ1位の打率.370、リーグ2位の56盗塁という成績を残した。
1993年以降は中軸を務めることが増えた。1994年にテッド・ウィリアムズに指摘され、長打重視も視野に入れた打撃改造を行う。同年は4割打者にあと一歩まで近づくが、8月に選手会による232日間に及ぶ長期ストライキに突入したためシーズンは打ち切られ、打率は.394で終わることとなった。1996年には打率.353をマークしたが、規定打席には4打席足りなかった。しかし、残り4打席を凡打と計算しても打率.349となり、エリス・バークス(ロッキーズ)の打率.344を上回ったため、メジャー史上初の規定打席不足での首位打者となった。
1997年は打率.372で4年連続で首位打者となった。これはナ・リーグ史上ロジャース・ホーンスビーの6年連続に次ぐものとなった。また、自己最高の17本塁打・117打点、球団新記録となる220安打・49二塁打を記録。グウィンは「私は今、打者として全盛期にある」と豪語し、「40歳になるまで、あと3年は現役を続ける」と宣言した。
1999年8月6日に史上22人目となる3000本安打を達成。2284試合目での達成はタイ・カッブ、ナップ・ラジョイに次ぐスピード記録であった。
2001年のシーズンを最後に、通算打率.338、通算3141安打の記録を残して現役引退。1983年から引退する2001年まで、レギュラーシーズンの打率が3割を切ることは1度もなかった。オールスター出場15回、首位打者8回などの記録も残した。2004年にグウィンの背番号「19」がサンディエゴ・パドレスで永久欠番となる。
引退後
野球殿堂入りの資格を得た2007年、532票(97.6%)もの高得票を集め、1年目での殿堂入りを果たした。
う~む…改めて見てみるとスゴイ選手でしたね。
メジャーのストライキがあった年は4割の可能性もあったってのは今でも強い印象があります。
テッドウイリアム以来の4割打者誕生か?
なんて日本でも話題になってましたね。
ちなみに当時のファミスタのメジャーチームでやたらハイアベレージのぐうぃん
という選手がいたのが私の最初の出会いだったと思います。
一時代を築いた名選手が亡くなるのは寂しい限りであります。
遠く離れた日本の片隅から謹んで哀悼の意を表します。
合掌…
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