- Date: Mon 24 03 2014
- Category: 野球を語る > 野球殿堂入り 年度別まとめ
- Community: テーマ "プロ野球" ジャンル "スポーツ"
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2010年 野球殿堂
東尾 修
通算251勝、ライオンズのエース
■ 顕彰文
69年に箕島高校からドラフト1位で西鉄入団。2年目に11勝し、以来ライオンズ一筋にエースとして活躍。太平洋時代の’75年に23勝で最多勝と最多奪三振のタイトルを獲得。西武になった後の’83年には最多勝と最優秀防御率を獲得し、MVPに選ばれた。’87年にも再びMVPに選出され、5回の日本シリーズ優勝に貢献した。制球力を生かし、打者の内角を鋭く突くピッチングで通算251勝を挙げた。

江藤 慎一
史上初の両リーグで首位打者
■ 顕彰文
熊本商業から日鉄ニ瀬を経て’59年に中日入団。1年目から130試合に出場し、活躍をした。ファイトあふれるプレーで「闘将」と呼ばれ’64年、’65年と2年連続首位打者を獲得、ロッテ移籍後の’71年にも首位打者となり、日本プロ野球史上初の両リーグでの首位打者となった。プロ野球引退後、静岡県天城湯ヶ島町に「日本野球体育学校」を設立し、アマチュア選手の指導にもあたった。

古田 昌幸
都市対抗16回出場「ミスター社会人」
■ 顕彰文
56年に立教大学から熊谷組に入社。勝負強い打撃と二塁手として抜群の守備で活躍した。’57年にはデトロイトで行われた第3回世界野球大会に出場し、日本チームとして初の世界一達成に貢献した。都市対抗野球大会には選手、選手兼監督として13年連続を含む16回出場し、3回優勝を達成。アマチュア一筋を貫き、選手引退後も日本野球連盟の要職を歴任し、社会人野球の振興に尽力した。
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通算251勝、ライオンズのエース
■ 顕彰文
69年に箕島高校からドラフト1位で西鉄入団。2年目に11勝し、以来ライオンズ一筋にエースとして活躍。太平洋時代の’75年に23勝で最多勝と最多奪三振のタイトルを獲得。西武になった後の’83年には最多勝と最優秀防御率を獲得し、MVPに選ばれた。’87年にも再びMVPに選出され、5回の日本シリーズ優勝に貢献した。制球力を生かし、打者の内角を鋭く突くピッチングで通算251勝を挙げた。

江藤 慎一
史上初の両リーグで首位打者
■ 顕彰文
熊本商業から日鉄ニ瀬を経て’59年に中日入団。1年目から130試合に出場し、活躍をした。ファイトあふれるプレーで「闘将」と呼ばれ’64年、’65年と2年連続首位打者を獲得、ロッテ移籍後の’71年にも首位打者となり、日本プロ野球史上初の両リーグでの首位打者となった。プロ野球引退後、静岡県天城湯ヶ島町に「日本野球体育学校」を設立し、アマチュア選手の指導にもあたった。

古田 昌幸
都市対抗16回出場「ミスター社会人」
■ 顕彰文
56年に立教大学から熊谷組に入社。勝負強い打撃と二塁手として抜群の守備で活躍した。’57年にはデトロイトで行われた第3回世界野球大会に出場し、日本チームとして初の世界一達成に貢献した。都市対抗野球大会には選手、選手兼監督として13年連続を含む16回出場し、3回優勝を達成。アマチュア一筋を貫き、選手引退後も日本野球連盟の要職を歴任し、社会人野球の振興に尽力した。

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