- Date: Sat 22 03 2014
- Category: 野球を語る > 野球殿堂入り 年度別まとめ
- Community: テーマ "プロ野球" ジャンル "スポーツ"
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2008年 野球殿堂
山本 浩二
“ミスター赤ヘル”と呼ばれた広島の4番打者
■ 顕彰文
大学時代は、田淵、富田と共に「法政三羽ガラス」と呼ばれ、黄金時代を築く。’69年ドラフト1位で広島に入団し、1年目からレギュラー選手として活躍。’75年には打率.319、30本塁打を記録して首位打者を獲得、広島を初優勝に導き、MVPに選ばれる。’77年からは5年連続40本塁打以上をマークし本塁打王を4回獲得するなど「ミスター赤ヘル」と呼ばれ、球界を代表する選手として活躍した。

堀内 恒夫
ルーキーで16勝をあげエースとしてV9に貢献
■ 顕彰文
甲府商業から’66年ドラフト1位で巨人に入団。ルーキーで開幕から13連勝を含む16勝2敗、防御率1.39をマークして、新人王、最優秀防御率、最高勝率、沢村賞を獲得。以後、’78年まで13年連続2桁勝利を挙げる。’67年には自ら3打席連続ホームランを打ち、ノーヒットノーランを達成した。’72年には26勝をあげて最多勝を獲得し、MVPに選ばれた。速球と大きく落ちるカーブを武器にエースとして巨人のリーグ優勝12回、日本一9回に貢献した。

嶋 清一
夏の甲子園の準決勝、決勝でノーヒットノーラン
■ 顕彰文
旧制和歌山県立海草中学の左腕投手として春2回、夏4回甲子園大会に出場。とくに昭和14年の第25回全国中等学校優勝野球大会では全5試合を被安打8、奪三振57の成績で完封。準決勝、決勝では2試合連続ノーヒットノーランを達成という、大会史上初の偉業を達成し、海草中学を初優勝に導いた。明治大学に進学し、将来を嘱望されたが、昭和20年3月インドシナ半島沖で戦死。享年24歳
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“ミスター赤ヘル”と呼ばれた広島の4番打者
■ 顕彰文
大学時代は、田淵、富田と共に「法政三羽ガラス」と呼ばれ、黄金時代を築く。’69年ドラフト1位で広島に入団し、1年目からレギュラー選手として活躍。’75年には打率.319、30本塁打を記録して首位打者を獲得、広島を初優勝に導き、MVPに選ばれる。’77年からは5年連続40本塁打以上をマークし本塁打王を4回獲得するなど「ミスター赤ヘル」と呼ばれ、球界を代表する選手として活躍した。

堀内 恒夫
ルーキーで16勝をあげエースとしてV9に貢献
■ 顕彰文
甲府商業から’66年ドラフト1位で巨人に入団。ルーキーで開幕から13連勝を含む16勝2敗、防御率1.39をマークして、新人王、最優秀防御率、最高勝率、沢村賞を獲得。以後、’78年まで13年連続2桁勝利を挙げる。’67年には自ら3打席連続ホームランを打ち、ノーヒットノーランを達成した。’72年には26勝をあげて最多勝を獲得し、MVPに選ばれた。速球と大きく落ちるカーブを武器にエースとして巨人のリーグ優勝12回、日本一9回に貢献した。

嶋 清一
夏の甲子園の準決勝、決勝でノーヒットノーラン
■ 顕彰文
旧制和歌山県立海草中学の左腕投手として春2回、夏4回甲子園大会に出場。とくに昭和14年の第25回全国中等学校優勝野球大会では全5試合を被安打8、奪三振57の成績で完封。準決勝、決勝では2試合連続ノーヒットノーランを達成という、大会史上初の偉業を達成し、海草中学を初優勝に導いた。明治大学に進学し、将来を嘱望されたが、昭和20年3月インドシナ半島沖で戦死。享年24歳

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