沈黙は金なり

アラフィフサラリーマンの日々徒然日記です。

 
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2003年 野球殿堂

上田 利治
熱血指導で阪急を常勝チームに

■ 顕彰文
関西大学時代には村山 実投手とバッテリーを組み、昭和31年から3年連続して全日本大学野球選手権大会に出場し、黄金時代を築いた。昭和34年捕手として広島に入団。選手生活は3年と短かったが指導力と野球に対する情熱を買われ25歳の若さで広島のコーチとなった。その後、阪急・オリックスの監督時代に、4年連続を含む5度のリーグ優勝を達成した。50年からは3年連続日本一となり、20年の監督生活で1322勝を挙げた。









関根 潤三
投手と野手でオールスター出場

■ 顕彰文
法政大学時代に来日したサンフランシスコ・シールズ戦に、六大学選抜軍の投手として出場し、延長13回を投げたが2-4で惜敗する。昭和25年に投手として近鉄に入団し、32年からは打者に転向した。防御率ベストテン入り1回、打撃ベストテン入り5回。オールスター出場5回のうち、28年は投手で、38年は打者としてファン投票で選出された。引退後はコーチ、監督として若い選手の育成に努めた。監督を退いてからは、テレビ解説者として、長年に渡り活躍。









松田 耕平
大リーグを手本に球団改革を推進

■ 顕彰文
昭和45年に広島東洋カープのオーナーに就任するや、大リーグの教育リーグへの選手派遣、球団初の海外キャンプの実施、球界初の外国人監督の起用など、大リーグを手本に球団改革を推し進めた。平成2年にはドミニカ共和国に「カープ・ベースボール・アカデミー」を設立、国内外での選手育成に力を注ぐなど先駆的な球団経営を推進した。球団創設26年目の昭和50年に悲願の初優勝を成し遂げ、リーグ優勝6度、日本一に3度輝くなど「赤ヘル黄金時代」を築いた。









ホーレス ウィルソン
明治5年に野球を伝えた外国人教師

■ 顕彰文
南北戦争に従軍後、お雇い外国人教師として来日する。明治5年に第一大学区第一番中学で英語や数学を教える傍ら生徒に野球を教えた。同校は翌年から開成学校(現東京大学)となり、立派な運動場ができると攻守に分かれて試合ができるまでになった。これが「日本の野球の始まり」といわれている。同校の予科だった東京英語学校(後に大学予備門、第一高等学校)、その他の学校へと伝わり、そこで野球を体験した人達が中心となって野球は日本全国へと広まっていった。現在の繁栄する日本野球の種をまいた人としてその功績は計り知れない。







鈴鹿 栄
軟式ボールを考案し野球の普及に尽力

■ 顕彰文
大正5年に京都市の小学校の教員グループが組織した、京都少年野球研究会に参加し、少年向きの野球ルールと適切なボールの研究開発を試みていた。あるときゴム靴の裏の滑り止めからヒントを得て、ゴムボールに靴底を張り付けたボールを試作した。さまざまな試行錯誤の結果、大正7年に子供のプレーに適した安全で安価な用球としてゴム製少年野球ボールを考案した。大正11年には大人用のボールも製品化され、大人の軟式野球も普及することになった。軟式野球は我が国最大の人口を持つスポーツであり、その普及と発展に対する功績は非常に大きい。
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野球、iPhone、ラーメン、子育てetc日々の思いを語るブログです。月2万円の小遣いをカミさんから貰わなくてもよくなる日を夢見て立ち上げました。どうぞよろしくお願いします。

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