沈黙は金なり

アラフィフサラリーマンの日々徒然日記です。

 
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2002年 野球殿堂

山内 一弘
シュート打ちに長けたスラッガーから後進を育てる名指導者へ

■ 顕彰文
昭和27年、毎日に入団し、「打撃の職人」としてミサイル打線の中心打者で活躍。昭和35年には本塁打王と打点王の2冠を獲得し、MVPに選ばれた。昭和38年オフに小山正明選手との「世紀のトレード」で阪神に移籍し、昭和40年7月4日には当時プロ野球史上初の300本塁打を達成した。オールスターに16回出場して大活躍し、「オールスター男」と言われた。指導者としても評価が高く、引退後、巨人、阪神の打撃コーチをはじめ、ロッテ、中日では監督を務めた。








鈴木 啓示
近鉄一筋、歴代4位の317勝

■ 顕彰文
昭和41年、ドラフト1期生として近鉄に入団。新人で10勝し、翌年からエースとして5年連続20勝以上の成績を残した。昭和43年と昭和46年にノーヒットノーランを達成。近鉄一筋の20年間に歴代4位の317勝、歴代1位の最多無四球試合78を達成。「草魂」の言葉を座右の銘として雑草のようにたくましく、輝かしい記録の数々を打ち立てた。最後の300勝投手と言われ、背番号1はパ・リーグで第1号の永久欠番となっている。









福本 豊
走・攻・守 三拍子そろった世界の盗塁王

■ 顕彰文
昭和44年、松下電器からドラフト7位で阪急に入団。2年目にレギュラーとなり、75盗塁で初めてタイトルを獲得。以来13年連続盗塁王となり「1億円の足」と言われた。昭和47年には106盗塁で日本記録を樹立してMVPに選ばれた。昭和58年6月3日にルー・ブロックの持つ当時の大リーグ記録、通算938盗塁を破った。走、攻、守三拍子そろった小さな大打者として、いずれも歴代1位の通算1065個の盗塁、449二塁打、115三塁打を記録した。










田宮 謙次郎
15シーズンで打率3割以上7回

■ 顕彰文
日本大学時代は昭和22年秋に首位打者となり投打で活躍。昭和24年阪神に入団し、昭和25年3月16日、国鉄戦で9回2死までパーフェクトに抑える快投を見せる。4年目に野手に転向し、昭和33年には首位打者を獲得した。昭和34年に10年選手制度の権利を行使して、大毎に移籍し「ミサイル打線」の一角を成す。昭和35年には長打力のある2番打者としてリーグ優勝に貢献した。実働15シーズンで7回打率3割以上を達成。










中澤 不二雄
天覧試合で陛下の説明役を務めたパ・リーグの初代専任会長

■ 顕彰文
明治大学時代から名遊撃手と言われ、大正2年マニラで開催された第1回極東オリンピックに出場し優勝した。卒業後、造船会社に就職したが野球が忘れられず、大正12年満鉄に移り、大連満州倶楽部の監督兼選手として活躍し、昭和2年、第1回都市対抗野球大会に出場して優勝。戦後は野球評論や解説で活躍し、昭和34年2月パ・リーグの専任会長制度発足と同時に初代会長に就任した。同年6月昭和天皇陛下が御観戦された「天覧試合」ではご説明役を務めた。









生原 昭宏(アイク生原)
日米野球交流の中心的役割を果たす


■ 顕彰文
昭和40年、ドジャースのウォルター・オマリー会長と親交の深い鈴木惣太郎氏の紹介により単身渡米し、ドジャース傘下のスポーケンの用具係からアメリカの野球生活をスタートした。後にドジャースのオーナーに就任するピーター・オマリー氏とは長年行動をともにした間柄で、昭和57年からオーナーの補佐兼国際担当として活躍した。巨人・中日のベロビーチ・キャンプの実現、日米大学野球開催などプロ、アマを問わず幅広い日米野球交流の中心的役割を果した。野球留学生に親身な世話をするなど多くの野球人に慕われた。










フランク オドール
日本の野球技術向上に尽力

■ 顕彰文
昭和6年、大リーグ選抜チームの一員として来日して以来たびたび訪日、学生野球の指導をするなど日本野球の技術向上に貢献した。また、日本のプロ野球創設に協力し、大日本東京野球倶楽部(現在の東京読売巨人軍)の「ジャイアンツ」というニックネームの名付け親でもある。昭和24年、日本野球の復興期にサンフランシスコ・シールズを率いて来日、戦争で十数年間途絶えていた日米野球交流を復活させた。昭和26年にはシールズの春季キャンプに藤村、川上、小鶴、杉下氏を招待し、アメリカ野球を体験させた。昭和35年サンフランシスコ・ジャイアンツのコーチとして随行するなど、永年にわたり日本の野球発展に尽力、「日米の懸け橋」として大きな役割を果たした。









正岡 子規
野球を題材とした短歌、俳句を数多く詠み「野球(のぼる)」の雅号も使った文豪

■ 顕彰文
明治17年、東京大学予備門時代にベースボールを知り、野球に熱中したといわれる。22年7月には、郷里の松山にバットとボールを持ち帰り、松山中学の生徒らにベースボールを教えた。23年2月、『筆まかせ』の雅号の項に「野球」が初めて見られ、幼名「升」から(のぼーる)と読ませている。29年には「日本」新聞に連載された『松蘿玉液』の中で野球のルール、用具、方法などについてくわしく解説している。野球を詠んだ短歌、俳句も数多く見られ、新聞や自分の作品の中で紹介し、野球の普及に多大な貢献をした。「久方のアメリカ人のはじめにしベースボールは見れど飽かぬかも」「今やかの三つのベースに人満ちてそヾろに胸の打ち騒ぐかな」



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