- Date: Mon 24 02 2014
- Category: 野球を語る > 野球殿堂入り 年度別まとめ
- Community: テーマ "プロ野球" ジャンル "スポーツ"
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1988年 野球殿堂
長嶋 茂雄
多くのファンを魅了するミスター・プロ野球
■ 顕彰文
六大学プロ野球を通じて史上最高の三塁手と讃えられる。立大では首位打者2回通算本塁打記録をも更新。昭和33年巨人軍に入ると本塁打、打点の2冠を獲得して新人王となる。V9の牽引力となり、好機をのがさぬ打撃とスピード感みなぎる守備でファンを魅了しつづけた。数々のタイトルに輝いて昭和49年に引退。51、52年に同軍監督としてリーグ優勝を果たす。

別当 薫
阪神、毎日の強打者から4球団の監督を歴任
■ 顕彰文
甲陽中学の剛球投手として甲子園大会で活躍。慶大でも投手、外野手、4番打者で17年春のリーグ戦では首位打者となるなど六大学を代表する強打者であった。全大阪をへて超大型新人として23年阪神に入団。オープン戦の6ホーマーで人気沸騰。2年後には毎日へ移り本塁打、打点で2冠王となる。監督、コーチとしても多くの後進を育て、55、56年大洋球団代表を厂任した。

西本 幸雄
阪急、近鉄に初優勝をもたらした熱血指揮官
■ 顕彰文
和歌山中学から昭和13年立大へ入学。一塁手主将として活躍。卒業後全京都を経て別府星野組に入団。監督兼任で第20回都市対抗に優勝。統率力にすぐれ、35年大毎球団監督に就任するやリーグ優勝で飾り、監督厂20年間で阪急近鉄を初優勝させるなど、不撓不屈の精神で8度のリーグ優勝を達成、闘将と呼ばれる。

金田 正一
通算400勝の金字塔を打ち立てた大エース
■ 顕彰文
昭和25年17才で新生国鉄スワローズに入団。早くから大黒柱として活躍しつぎつぎに投手記録をぬりかえて、球界に君臨する大投手となった。とくに対巨人 対長嶋に奮起しファンを歓喜させた。巨人に5年在籍。通算400勝、4490奪三振、14年連続20勝以上の前人未到の大記録を樹立した。49年にはロッテの監督として日本シリーズを制覇した。

横沢 三郎
プロ野球草創期の名審判と呼ばれた明大OB
■ 顕彰文
巧守巧打の名二塁手として大正12年秋のリーグ戦で明大初優勝に貢献した。昭和4年制度化した東京六大学専属審判員を努め、その間東京クラブの二塁手として都市対抗にも出場4度の優勝を果たす。11年プロ野球東京セネタースの結成及び戦後の新生セネタースの誕生に尽力し監督となる。のちパ審判部長として選手権、オールスターに連続出場、名審判とたたえられる。

芥田 武夫
東京六大学発足当時に活躍した早大の名外野手
■ 顕彰文
早大飛田監督の精神野球で鍛練され名外野手とうたわれた。早慶戦が復活し、六大学リーグが発足した大正14年秋、首位打者を獲得。15年には主将を厂任した。満州クラブをへて昭和8年スポーツ記者として時事新報に入社。10年朝日新聞社に移ってより戦後の困難な時期を通して甲子園大会の運営に尽力された。28年近鉄の監督に迎えられ5年間采配をふるい最下位脱出を果たし、のち同球団社長となる。

永田 雅一
東京球場をつくった大映の辣腕オーナー
■ 顕彰文
昭和23年プロ野球大映チームのオーナーとしてリーグに加盟すると、映画制作同様たちまち球団経営にも行動力を発揮し、24年には二リーグ分立の推進役を果たした。パ・リーグの人気高揚を願い、またフランチャイズ制の理想的な確立を求めて東京球場を建設するなど、球界の発展のため誠心誠意の情熱を注いだ。

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多くのファンを魅了するミスター・プロ野球
■ 顕彰文
六大学プロ野球を通じて史上最高の三塁手と讃えられる。立大では首位打者2回通算本塁打記録をも更新。昭和33年巨人軍に入ると本塁打、打点の2冠を獲得して新人王となる。V9の牽引力となり、好機をのがさぬ打撃とスピード感みなぎる守備でファンを魅了しつづけた。数々のタイトルに輝いて昭和49年に引退。51、52年に同軍監督としてリーグ優勝を果たす。

別当 薫
阪神、毎日の強打者から4球団の監督を歴任
■ 顕彰文
甲陽中学の剛球投手として甲子園大会で活躍。慶大でも投手、外野手、4番打者で17年春のリーグ戦では首位打者となるなど六大学を代表する強打者であった。全大阪をへて超大型新人として23年阪神に入団。オープン戦の6ホーマーで人気沸騰。2年後には毎日へ移り本塁打、打点で2冠王となる。監督、コーチとしても多くの後進を育て、55、56年大洋球団代表を厂任した。

西本 幸雄
阪急、近鉄に初優勝をもたらした熱血指揮官
■ 顕彰文
和歌山中学から昭和13年立大へ入学。一塁手主将として活躍。卒業後全京都を経て別府星野組に入団。監督兼任で第20回都市対抗に優勝。統率力にすぐれ、35年大毎球団監督に就任するやリーグ優勝で飾り、監督厂20年間で阪急近鉄を初優勝させるなど、不撓不屈の精神で8度のリーグ優勝を達成、闘将と呼ばれる。

金田 正一
通算400勝の金字塔を打ち立てた大エース
■ 顕彰文
昭和25年17才で新生国鉄スワローズに入団。早くから大黒柱として活躍しつぎつぎに投手記録をぬりかえて、球界に君臨する大投手となった。とくに対巨人 対長嶋に奮起しファンを歓喜させた。巨人に5年在籍。通算400勝、4490奪三振、14年連続20勝以上の前人未到の大記録を樹立した。49年にはロッテの監督として日本シリーズを制覇した。

横沢 三郎
プロ野球草創期の名審判と呼ばれた明大OB
■ 顕彰文
巧守巧打の名二塁手として大正12年秋のリーグ戦で明大初優勝に貢献した。昭和4年制度化した東京六大学専属審判員を努め、その間東京クラブの二塁手として都市対抗にも出場4度の優勝を果たす。11年プロ野球東京セネタースの結成及び戦後の新生セネタースの誕生に尽力し監督となる。のちパ審判部長として選手権、オールスターに連続出場、名審判とたたえられる。

芥田 武夫
東京六大学発足当時に活躍した早大の名外野手
■ 顕彰文
早大飛田監督の精神野球で鍛練され名外野手とうたわれた。早慶戦が復活し、六大学リーグが発足した大正14年秋、首位打者を獲得。15年には主将を厂任した。満州クラブをへて昭和8年スポーツ記者として時事新報に入社。10年朝日新聞社に移ってより戦後の困難な時期を通して甲子園大会の運営に尽力された。28年近鉄の監督に迎えられ5年間采配をふるい最下位脱出を果たし、のち同球団社長となる。

永田 雅一
東京球場をつくった大映の辣腕オーナー
■ 顕彰文
昭和23年プロ野球大映チームのオーナーとしてリーグに加盟すると、映画制作同様たちまち球団経営にも行動力を発揮し、24年には二リーグ分立の推進役を果たした。パ・リーグの人気高揚を願い、またフランチャイズ制の理想的な確立を求めて東京球場を建設するなど、球界の発展のため誠心誠意の情熱を注いだ。

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