- Date: Tue 14 01 2014
- Category: 野球を語る > 野球殿堂入り 年度別まとめ
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1959年 野球殿堂
正力松太郎
巨人軍を創設した日本プロ野球の父
読売新聞社社長として昭和6・9年に米大リーグ選抜軍を招聘。9年の全日本軍を主体に大日本東京野球倶楽部「東京巨人軍」を創設し、11年には日本職業野球連盟発足へと導いた。戦後も(株)日本野球連盟取締役会長として草創期プロ球界を強力にリードした。民間TV放送の先駆者でもあり、プロ野球新時代を築いた。

平岡煕(ひろし)
米から指導書を持ち帰り、初の野球チームを結成
明治4年アメリカへ留学し、機関車両・機械類製造技術のほかベースボールを修得し同9年に帰国した。工部省鉄道局技師となり新橋停車場構内に仮運動場を設け、用具や規則書を輸入しユニホームを作る等我国初の本格的野球チーム“アスレチックス”新橋倶楽部を組織した。日本の野球の祖。

青井鉞男 (よきお)
米チームを破った一高黄金期のエース
1896年第一高等学校野球部投手として初めて外人チームに勝ち、よく後進を指導した。初めて野球規則を邦訳し野球近代化の途を開いた。

安部磯雄
早大野球部を創設し、学生野球を組織化
1901年早稲田大学野球部を創設し次いで第一回渡米を敢行す。以来一貫して学生野球の育成に努め「学生野球の父」と仰がれる。

橋戸信
都市対抗野球を創設した野球評論家
1905年早稲田大学野球部主将として渡米。新技術を導入し「最近野球術」を著した。また全国中等学校野球大会及び全国都市対抗野球大会の実現を企晝推進した。

押川清
日本初のプロチーム『日本運動協会』を創設
早稲田大学野球部草創期の選手。後に球界の長老として敬愛される。1920年日本運動協会を結成。プロ野球発生の先駆者となる。

久慈次郎
名捕手として活躍した野球界の重鎮
早稲田大学在学中より名捕手として知られ、社会人野球の育成に努めた。1939年球禍に会い札幌球場で42才の生涯を終えた。

沢村栄治
無安打無得点3度の伝説の大エース
東京ジャイアンツ発足当時の投手。再度の渡米に活躍。1937年日本野球連盟最初の最高殊勲選手に簡抜され、その名声は創生期の象徴として球史を飾る。

小野道三千麿
米大リーグ相手に初の白星を挙げた剛球投手
慶應義塾、三田倶楽部、大阪毎日野球団の投手として活躍。1922年大リーガーを迎えこれを破り日本人初の勝利投手となる。後年運動記者として令名を博した。
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巨人軍を創設した日本プロ野球の父
読売新聞社社長として昭和6・9年に米大リーグ選抜軍を招聘。9年の全日本軍を主体に大日本東京野球倶楽部「東京巨人軍」を創設し、11年には日本職業野球連盟発足へと導いた。戦後も(株)日本野球連盟取締役会長として草創期プロ球界を強力にリードした。民間TV放送の先駆者でもあり、プロ野球新時代を築いた。

平岡煕(ひろし)
米から指導書を持ち帰り、初の野球チームを結成
明治4年アメリカへ留学し、機関車両・機械類製造技術のほかベースボールを修得し同9年に帰国した。工部省鉄道局技師となり新橋停車場構内に仮運動場を設け、用具や規則書を輸入しユニホームを作る等我国初の本格的野球チーム“アスレチックス”新橋倶楽部を組織した。日本の野球の祖。

青井鉞男 (よきお)
米チームを破った一高黄金期のエース
1896年第一高等学校野球部投手として初めて外人チームに勝ち、よく後進を指導した。初めて野球規則を邦訳し野球近代化の途を開いた。

安部磯雄
早大野球部を創設し、学生野球を組織化
1901年早稲田大学野球部を創設し次いで第一回渡米を敢行す。以来一貫して学生野球の育成に努め「学生野球の父」と仰がれる。

橋戸信
都市対抗野球を創設した野球評論家
1905年早稲田大学野球部主将として渡米。新技術を導入し「最近野球術」を著した。また全国中等学校野球大会及び全国都市対抗野球大会の実現を企晝推進した。

押川清
日本初のプロチーム『日本運動協会』を創設
早稲田大学野球部草創期の選手。後に球界の長老として敬愛される。1920年日本運動協会を結成。プロ野球発生の先駆者となる。

久慈次郎
名捕手として活躍した野球界の重鎮
早稲田大学在学中より名捕手として知られ、社会人野球の育成に努めた。1939年球禍に会い札幌球場で42才の生涯を終えた。

沢村栄治
無安打無得点3度の伝説の大エース
東京ジャイアンツ発足当時の投手。再度の渡米に活躍。1937年日本野球連盟最初の最高殊勲選手に簡抜され、その名声は創生期の象徴として球史を飾る。

小野道三千麿
米大リーグ相手に初の白星を挙げた剛球投手
慶應義塾、三田倶楽部、大阪毎日野球団の投手として活躍。1922年大リーガーを迎えこれを破り日本人初の勝利投手となる。後年運動記者として令名を博した。

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